反抗期、またはあいさつについて

写真は2018年、大学構内にて。東京でこんなに降った年。

父のだだいまの声を聞いて突然自分の反抗期を思い出した。

中学生のころ自宅に戻ってもただいまを言わなかった。小学生のときまでは言っていたのだが急に必要性が感じられなくなったからだ。自分が家にいるかどうかは姿を見れば分かるし、玄関から遠い場所にいたら声が聞こえないのだから意味ないじゃん。そう思った。案の定両親からはお叱りを受けた。自分なりの考えを持っていたけれどそれを言語化する能力がなかったので理由は説明できなかった。とにかくなんであいさつをしなくてはいけないのか納得がいかなかった。ただいまは絶対に言わなくなった。

年を重ねて自分なりにあいさつの意味、というか意義がわかるようになった。家族との関係が良好ではなかったので気づかなかったけれど、人は好いている人に自分の存在を知らせたいものなのだと思う。あなたの大好きな人が帰ってきましたよと。恋人と同棲していたときはその気持ちが確かにあった。家に「来る」ではなくて「帰る」人であればただいまを言うだけで待っている相手は嬉しいし、安心するのだろう。

ただのあいさつでしょ?深く考えないですれば?と言われそうだが私は何に対しても何故と問いたくなるのだ。それは社会的規範なのかそれとも別の何かなのか。当たり前と言われるようなことにも意味や歴史があるので調べてみるとおもしろい。

今、中学生の自分にあいさつの必要性を説明するならなんと言えばいいだろうか。

大丈夫か聞かないで

写真は2014年、カンボジア。何かのお祭りをやっていた。

朝から部屋で作業をしていたら外から母の声が。大丈夫か聞かれたので自分の部屋にいて何か変?と返した。嫌な返しをしてしまったなと思いつつ、何もないのに大丈夫か聞かれるのが嫌いなのでしょうがない。あと、大丈夫じゃない人は大丈夫じゃないとは中々言えないものだよ。

本当に嫌なので1日もやもやしていたら、夕食前に母が冷めたコーヒーを温めて出してくれたので機嫌がなおる。単純。

積読

写真は2018年、横浜。適当に散歩をしていたら好きな建築がたくさんあった。

積読がありすぎる。いつでも読みたい本があるということなので幸せだけれど、増えていく一方でなかなか読めていない。紙の本が好きなので好きなままに購入していたらあっというまに仕舞う場所がなくなってしまった。場所は有限なんだ!と気づいてからは電子書籍版がある本はKindleで、それ以外は紙の本を購入することにした。

しかし気づいてしまった。電子書籍積読し放題だということに。紙と違いデータ保管なので、8GBのKindleでも小説なら数千冊積めてしまえる。紙の本であったならば物理的に確保出来るスペースに限界があるのでもう買い足せないというラインがあるのだろうけど、電子書籍だとそのラインがはるか彼方にある。実際、電子書籍を優先的に選ぶようにしてからは明らかに積読が増えた。本屋や通販で買う手間がないし、買ったらすぐに読めるという便利さから購買意欲がそそられてしまった。

最近どのような本を購入しているかというと、もっぱらエッセイ。読みやすいというのもあるけれど、去年から書き始めた日記を書くうえで参考になるなと思って買っている。以下が最近購入したエッセイ。

・「死なれちゃったあとで」前田隆弘

・「パリの砂漠、東京の蜃気楼」金原ひとみ

・「きれぎれのダイアリー 2017~2023」柴田聡子

・「死ぬまで生きる日記」土門蘭

・「シティガール未満」絶対に終電を逃さない女

・「無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記」山本文緒

・「向田邦子ベスト・エッセイ」向田邦子

積読も知識の財産だと思っているので積んでいることに後悔はないけれど申し訳無さはある。でも、読まなきゃと思って読む本は面白くないので自分のペースで読みたいときに読もうと思う。

Room202

写真は2022年、同居人とたまに聴いていたレコード。

私の共同生活歴は長い。

大学入学と同時に学生寮に入寮した。そこでは2年過ごした。現在交流のある友人のほとんどが寮で出会った人たちなので、入寮していなかったら今の交友関係はつくられていなかったと思う。この寮は入学前に想像していた学生寮の概念を綺麗さっぱり壊してくれた。大学入学前はドライな関係性を好んでいたけど、繋がりを大切にする関係性も悪くないと思えるようになった。

その後、寮で出会った気の合う友人たちと一軒家を借りてシェアハウスをした。2年弱暮らしていたけれど、楽しい思い出ばかりではない。友人たちとの共同生活に不満があったわけではなくて、精神的に不安定な日々が多かった。スターバックスのフラペチーノを階段で撒き散らしてしまい泣いたこともあったし、何日も風呂に入れない日々が続いていたときもあった。でも、友人と彼らと一緒に入居してくれた恋人との生活はかけがえのないものだった。幸せに溢れていたときも確かにあった。

シェアハウスでの生活は様々なトラブルがあり終わりを迎えた。

でも、共同生活はそこで終わらなかった。シェアハウス生活中になんとなくこの人となら2人でも暮らしていけるなと思った友人とルームシェアをすることにしたから。この友人と暮らし始めてからお互いを友だち、親友、と呼ぶことがしっくりこなくなって同居人と呼び始めた。なんだかそっちのほうが家族感があったから。実際に家族だった気がする。

入居して2年くらい経った頃、変化が訪れた。2人だけだった生活に同居人の恋人が加わったからだ。同居人が交際を始めてから2人は度々家で過ごすようになり泊まることが日常になっていて、いない日のほうが少ない程だった。それがしばらく続いた頃、いっそのこと3人で暮らしてもよいかと聞かれ了承した。そうして、不思議な共同生活が始まった。

シェアハウスからの同居人には「よく3人で暮らすことを許してくれたね」と言われたことがあるけれど、私にとっては些細な変化としか思っていなかった。私は普段は自室に籠もっていたし、リビングには暇なときにダラダラと他愛もない話をしに行く程度だった。

期待はゼロだったけれど3人での生活は思っていたより楽しかった。老夫婦のように代わり映えしない生活(私はこれが大好きだったけれど)に新しい風が吹いた。今までは興味のなかったお笑いやバラエティ番組にふれる機会もあったし、年越しにそばを食べたりもした。

契約更新のタイミングで3人での共同生活を解体することにした。同居人の6畳の部屋に2人分の荷物があふれ、2人は殆どリビングで過ごしていて窮屈だったのだと思う。それでも共同生活は楽しかった!

という感じで約7年の共同生活に幕を下ろしました。

今まで一緒に住んでくださったみんな、ありがとうございました。

みんなと過ごした日々は私の大切な一部です。

初めての写真集

写真は2023年トロント。カナダに着いて初めての散策がこの公園だった。

週刊はてなブログのEditors' Picksを読んでいたらいつの間にか午前中が終わっていた。今日はショッピングモールの中にある大きめの紀伊國屋書店に行く予定があるのに忘れるところだった。熱中すると時間の感覚がなくなる。

出発が遅くなって夕飯まであまり時間がないので計画的に時間配分をしようと思い、最近つけていない腕時計をつけた。本当なら5時間くらい本屋にいたいところだけど頑張って30分に抑えた。気の向くままにウロウロしていると本当に5時間かかるので今日は事前に欲しい本を決めてそれらを試し読みして購入することにした。Kindleで読めるものは除外しておく。途中で寄り道して何冊か目に留まった本もパラパラと目を通してしまったけれどそれでも早く済んだ。

購入したのは安井仲治の作品集と金川晋吾のドキュメンタリーノベル。どちらも写真家。実はこれが初めて購入した写真集なのです。実家の蔵書には写真集がないし、写真集はもっぱら高いのもあって今まで手に取る機会がなかった。なんだか大人になった気分...

 

このごろのルーティン

写真は3月の白樺湖の遊歩道。のぼり旗が雪にのみこまれていた。3.8kmの外周をぐるっと一周した。

6月まで実家ぐらし、その間は働かないと決めたのでしばらくモラトリアム生活。一応毎日同じ時間に寝起きはしていたのだけれど、暇暇と嘆いてる自分がそろそろ煩くなってきたので近頃はやることを決めて過ごしてみている。

朝は7時に起床。Feedlyで購読しているサイトの記事に目を通す。これは少し前までは就寝前にやっていたのだけれど、寝る前に情報を詰め込むのはなんだか疲れるということで朝にやることにした。起きて自然とよし!1日を始めるぞ!という気分にはならないのでYouTubeで勉強や筋トレを習慣的にやっている人の動画を見てやる気を出す。それから意外なことに習慣となりつつある軽めの筋トレを済ます。布団を片付けて朝食を取りひとまず朝は一段落。

1日のブロックとして次は昼食前があるのだけれど、ここではブログを読んだり新しい音楽を聴いたりしている。今聴いているのはビヨンセの新しいアルバム。

昼食を取ってからはインプットは休憩してゆるい活動をする時間。今は2000ピースのパズルに取り組んでいる。他には自室と書斎にある膨大な量の本の蔵書管理をしたりする。ひたすらISBNを読み込んでデータベースに登録する作業。よく考えると地味な作業だけどなかなかに疲れるのでゆるい活動ではないかもしれない。夕飯の買い出しもここで済ませる。今日は味噌ラーメン(昨日から出汁をとって自分としては割と本気のラーメン)。そうしているといつのまにか夕食の時間になっている。

夕食後はドラマを観たりボードゲームをしたりブログを書く(まだルーティンと言える程書いていないけれど)。ドラマもボードゲームも家族と一緒にしているので我が家ではここが家族団らんの時間となる。

寝る前には紙の日記を書いている。ブログとはどう違うのかというと今日考えたことだとか読んだ本の感想だとかの内容のあるものではなく、ひたすら一日したことの羅列。夕食に何を食べたとかどこのスーパーに行ったとかそういうこと。忘れっぽいので日記を書かないとその日に何をしたのか2日で忘れてしまう。下手すれば昨日したことも覚えていない。とにかく何かをして過ごしたということを記録するために書いている。それでも見返すと案外その日に感じたことを思い返せるので不思議だ。

締めくくりにマイブームのMDを聴いてぼーっとする。お気に入りはユーミンのコンピレーション。昔友達にユーミンのどの曲が好きかと聞かれて、翳りゆく部屋だと答えたらなんだか心配しているように「暗いねぇ」と言われたことがある。

という感じで1日が終わるのだけれど、これもしばらくすれば飽きるのだろうな。それでまた違うルーティンを組むのだと思う。飽き性なので。

それまでは、まだこのままで。

認めるということについて

写真は2月の草津温泉。街頭に照らされて雪が綺麗だった。

認めることは時折難しい。楽しかったとか幸せだったとかそういう感情ではなくて、それを認めてしまったら理想の自分からかけ離れてしまうようなそういったこと。

自分は怒りだとか苛立ちとかの類の感情に対してかなり敏感で、周りの人たちがその空気を纏ってると萎縮してしまうし怖い。だから自分がそのような感情を抱くことが嫌いなんだと思う。そういった負の感情を周りに当てるという人になりたくないというのもある。でも、生きていく中でそういった感情を抱かないことってあまり現実的ではないからどうにか付き合っていかないといけない。今のところその付き合い方は模索中です。

最近少し怒りを覚えたときは運動で発散するというのを試してみた。この間観たドラマの主人公が怒りに任せてサイクリングマシンを漕いでいたのを参考にしてみたのだけれど、強度が足りないのかあまり効果は感じられなかった。でもまあどんな感情であれ無視するのはあまりよくない気がするのでとりあえずネガティブな感情でもそれを否定しないで受け入れようかな。

もう一つ認めなくてはいけないことがある。自分は花粉症になってしまったということだ。くしゃみや鼻水など諸々の症状は出ていたのだけれど認めてしまったら日常生活がままならない程悪化してしまうのではないかと頑なに意地を張っていた。そんな、できないと思ってるからできないんだみたいな根性論を持ち出すくらい花粉症が自分のアイデンティティと一致しなかった(丈夫な身体を持っているということが取り柄なので)。

でも!認めます!負けました!我慢なんてしないで薬を飲みます...