写真は大学生時代に住んでいた寮。現代的な建物だった。

映画館でオーメン:ザ・ファーストを観た。久しぶりの映画館。音楽が素晴らしかった。どことなくシャイニングを思い出させる、無音で観たら怖さが半減する音楽が恐怖を煽る系統の映画。精神の混乱の演出も効果的で面白かった。

掃除

写真は2023年ダウンタウントロント。滞在中何度か見かけた自転車。

弾丸温泉旅行に行ってからなんとなく体調が悪い。朝すっきり起きられないし、そうするのが楽なので大体横になって過ごしている。

体調が悪いと思う時、大体は部屋が荒れ果てている。部屋が汚いから体調が悪いのか体調が悪いから部屋が汚いのか分からないけれどとにかく散らかっている。今目につくだけでオロナミンCの空き瓶が2本と空のペットボトルが3本ある。

こういう時は部屋を片付けると少しスッキリすると分かっているので片付けたいけれど、なかなか身体が動かない。そして、片付けからの逃避でこれを書いている。

はてなブログを読んでいる・書いているときは大体音楽をかけているのだけれど、最近はもっぱらNPRのTiny Desk Concertを流している。最近のお気に入りはジャスティン・ティンバーレイクのコンサートだけれど、今日は公開されたばかりの藤井風のものを聞いている。藤井風は英語を喋っていると日本語の時とだいぶ印象が違う。

熱気と冷水

写真は2014年、カンボジア。キリング・フィールドが観光地になっていてここで本当に虐殺が行われていたなんて信じられなかった。

公園に花見に行った日に母に頼まれて予約して温泉に行くことになった。どうも散々友人と行った時の自慢をしていたのが結構響いたらしい。その場で予約して次の日に行くことにしたので、普段遠出するときに必要な心の準備が出来ずによくわからないまま出発した。

専業主婦の母はまだしも、会社員の父は急に有給を使って弾丸旅行にいけるわけがないだろうと思っていたがそうでもないらしい。普段の仕事は毎日やることがあるタイプの仕事ではなく、出発の日は大事な会議のある日ではないので大丈夫だとのことだった。そうなんだ、と相槌を打ったがそんな仕事があるのかとびっくりした。今まで下っ端としか働いたことのない自分とはずいぶん世界が違った。

温泉は満喫できたと思う。サウナに入れたのがよかった。90℃のサウナの中で暑さに耐えながらじっとしている時間は正直あまり好きではないのだけれど、長く入っているとその分その後の水風呂が気持ち良いのでひたすらその瞬間を想像して我慢した。水風呂は10℃だった。当たり前だけど全身浸かるには冷たい。サウナ後の暖まった身体だとなおさらだ。でも思い切って浸かったあとに外気浴をすると最高に気持ち良い。冷水に浸かったはずなのに身体からはモヤモヤと熱気が発散されているような感覚になるし、これが自分の生気を吸われているのかと思うほど身体がゆるくなるのでおもしろい。

帰りは海の近くでカニを買って夕飯に食べた。カニと目があってしまい、この筋を収縮させて動いていたんだろうなと考えながら身を食べた。ごちそうさまでした。

 

古いフィルムの行方

写真は2018年、新潟。ドライブの経由地点としては満点だった。

朝は6時に起きたのに二度寝をしてしまった。

9時頃にやっと起きて朝食を取る。曇りの予報だったけれど晴れたので家族と大きめの公園に向かうことにした。

平日なので人はまばらにいる程度で過ごしやすかった。ピクニックシートを敷いてお菓子をならべ、魔法瓶に入れてきた柚子茶を飲みながら本を読んだりぼーっとする。目を閉じて横になっていたら目を開けたとき色がおかしく見えた。

カメラを持っていったので広い公園内をぶらぶら歩きながら何枚か撮った。

その後はフィルムの現像をしに少し遠出してカメラ屋に向かった。昔はフィルムなんて気軽に近場で現像出来たのに今では探さないと出来るところがない。こんなことを言っているが私は全くフィルム世代ではない。

家に有効期限が14年前のフィルムがあったので誕生日に頂いたフィルムカメラでコツコツと撮っていたのだが、プリントしてみると全く使い物にならないということが分かった。一か八かで撮って使えたらラッキーと思っていたが、自分なりに良い写真が撮れた気がしたのでちょっと落ち込んだ。残った5個入り2箱は処分しなくてはいけない。何ゴミに出せばいいのだろう。

行ったら楽しい

写真は2015年、自室。小さいサンルームがあって、そこでぼーっとするのが心地よかった。

友人と会う当日になると行きたくないという気持ちが沸き上がってくる。会いたくないわけでも楽しみにしていないわけでもない。なんとなく出向くのが億劫になって身体が動かなくなる。でも、そんな気持ちも会ってしまえば消え去って楽しいから不思議だ。

例外もなくこの間友人と会う日になって行きたくないと思ってしまった。遠方まで夜行バスで7時間かけて向かうことが決まっているのも追い打ちをかけていた。

朝早く支度して出発してしまえばもう向かうしかなくなるだろうと思い急ぎ足で家を出た。まずは新宿まで向かいそこからバスに乗る。バスに乗り込んでもう逃げ場がなかった。途中でサービスエリアでの休憩を2度挟んでから目的地に着いた。友人たちと合流してからは出かける前の億劫さが嘘かのように消え去った。やっぱり私はこの人たちと会いたかったのだ。

食事の後友人宅に向かう道中で酒と菓子を買い、深夜の談笑に備えた。相変わらず芯のしっかりしている友人たちと話していると刺激を受ける。酒を飲み、輪郭がぼやけた会話をしていても彼らの知性を感じる。真面目な話もくだらない話も別け隔てなく話せる友人達はかけがえのない存在だ。

深夜3時頃まで話し込み、寝ている時間が惜しいと感じられる程だったが就寝した。

結局2日間共に過ごした時間は行く前の憂鬱さが馬鹿馬鹿しく思えるほどとても楽しかった。

行ったら楽しいのに行く前は億劫に感じてしまう現象に負けずこれからも積極的に友人達と会おうと思う。

傘の角度

写真は2013年の韓国。パリバゲットが懐かしい。

マレーシアのスコールを思い起こさせる雨音を聞きながらこれを書いている。

幼少期に母に傘の持ち方を矯正されたことがある。雨が降ったら傘をさすという動作は習得していたものの、持ち方までは意識していなかったので指摘された時は間の抜けた顔をしていたと思う。雨は角度をもって降るのでそれに合わせて傘を傾けるということだった。確かに、それだと傘の持つポテンシャルをフルに発揮させられるなと納得した。

友人達と話していると、自分は間違った角度で傘をさしているのではないかという気分になることがある。彼らはみんな自分の見解をしっかり持っていてそれを裏付ける知識もある。会うたびに勉強不足だと感じるし、彼らと比べて自分はなんて浅い考えしか出来ないのだろうとうっすら自己嫌悪に至る。喋っていると、雨の降っている方に傘をさせてないように点で的はずれなことを言っているのではと不安になる。

友人からは物事を客観的に見ることが出来て、着眼点がユニークだというような褒め言葉を頂いたことがある。嬉しかったけれど多分そうではなくて、ただ自分の知識の無さを誤魔化すために話をそらしているだけなのだと思う。議題に対して真っ向と向き合う能力がないのだ。

今の自己肯定感のなさは無知からくるものだから勉強すればいいのだけれど、そのキャパシティが今はない。無知は恥ずべきことではない。勉強すればいいだけなのだから。でも多分、勉強して改めて自分の知識の無さを突きつけられるのが怖いのだと思う。プライドの高い自分が嫌になる。直したい。

それぞれの物語

写真は2017年、尾道。地元の方が案内をしてくれた。

いつか車でどこかへ向かっていたとき、日が暮れて光っている周りの車をみていたら気づいたことがある。この箱ひとつひとつに乗っているそれぞれの人間の数だけ物語があるんだなということ。みんな何かを考えて生きていて、感情があって、嫌なことも嬉しいことも経験しているんだってこと。当たり前のことなのだけれどそれまでは自分の人生に手一杯で周りを見る余裕が全くなかった。ゲームでNPCがプレーヤーのいるときにだけ活動するように、私の見えていない範囲の世界では物事がとまっているのだと勘違いしていたのかもしれない。笑えないくらい自己中心的過ぎる。私が自分の物語を歩んでいるのと同じように、車でほんの一瞬すれ違っただけの人にも物語がある。

人生が終わったあとにエンドロールが流れるとしたら、私はいったい何人の人生に登場するのだろうか。ちょい役でも誰かの人生にいられたのなら嬉しい。