傘の角度

写真は2013年の韓国。パリバゲットが懐かしい。

マレーシアのスコールを思い起こさせる雨音を聞きながらこれを書いている。

幼少期に母に傘の持ち方を矯正されたことがある。雨が降ったら傘をさすという動作は習得していたものの、持ち方までは意識していなかったので指摘された時は間の抜けた顔をしていたと思う。雨は角度をもって降るのでそれに合わせて傘を傾けるということだった。確かに、それだと傘の持つポテンシャルをフルに発揮させられるなと納得した。

友人達と話していると、自分は間違った角度で傘をさしているのではないかという気分になることがある。彼らはみんな自分の見解をしっかり持っていてそれを裏付ける知識もある。会うたびに勉強不足だと感じるし、彼らと比べて自分はなんて浅い考えしか出来ないのだろうとうっすら自己嫌悪に至る。喋っていると、雨の降っている方に傘をさせてないように点で的はずれなことを言っているのではと不安になる。

友人からは物事を客観的に見ることが出来て、着眼点がユニークだというような褒め言葉を頂いたことがある。嬉しかったけれど多分そうではなくて、ただ自分の知識の無さを誤魔化すために話をそらしているだけなのだと思う。議題に対して真っ向と向き合う能力がないのだ。

今の自己肯定感のなさは無知からくるものだから勉強すればいいのだけれど、そのキャパシティが今はない。無知は恥ずべきことではない。勉強すればいいだけなのだから。でも多分、勉強して改めて自分の知識の無さを突きつけられるのが怖いのだと思う。プライドの高い自分が嫌になる。直したい。